その英雄は、一度死んでいる

第7話 蟻の巣穴に落ちて

 頬に何かが触れる。

 その感覚で意識が浮上して、瞼を押し上げた。

「大丈夫か?」

 エセルバートの視線の先では、金髪の美しい男が心配そうにしている。

 どうやらヴェイセルがエセルバートの頬を軽く叩いていたようだ。

 眉間に集中して記憶を探る。

「巣穴に落ちたんだったか?」

 横になっていた身体を起こして、頭上を確認する。

 地上の光はかなり小さく、深い穴だとわかる。

 周囲を見回すと、多くのヒカリダケが生えていて、暗い地中だというのに視界ははっきりしていた。

「こいつのおかげで助かったんだ」

 ヴェイセルが足下を軽く叩いている。

 二人が座り込んでいた場所は、巨大なヒカリダケの傘だった。

 軽く触れると柔らかで、弾力のある感触が伝わる。

「おまえ、さっき魔法を使っていなかったか?」

 赤銅色の瞳孔が怒りで縦に裂けていたのを思い出し、問う。

「ああ。でも加減を間違えた」

 ヴェイセルが女王蟻の頭部を破壊したのは記憶に新しい。

 発現したばかりで暴走状態だったからこそ、あれほどの怪力が出たのだろう。

 自身が守らなくてはいけない立場だったのに、守られてしまった。

 不意に頭に浮かんだのはそんなことだった。

 頭を緩く振りながら、そっと男を見る。ヴェイセルは立ち上がって頭上を確認していた。

 鼻腔を擽るのは湿気た土の独特な臭い。鼓膜に響く滴る水の音。

 視界に入る明るすぎない光量は、穴の中ということもあって少し非現実的である。

 だからこそ、過去の幻影が脳内をちらついたのかもしれない。

 目の前の男は警戒して周囲を見ている。けれど、一瞬でその表情が和らいだ。

「他の蟻はいないようだな」

 どうやら魔力探知も扱えるようになったようだ。

 覚醒したばかりでここまで自在に操れることに驚く。

 自然と掌に視線が落ちる。

 穴から落ちるとき、ヴェイセルの身体からは揺らいでいた魔力が滲み出ていた。

 それを肌で感じたけれど、感情が揺れていた割に思いの外落ち着いたものだった。

 あの感触は、暴走していても理性を手放していないとわかった。

 この男は感情で我を忘れない。

 魔力の制御にはとても大切なことである。

 一度拳を作ってから、エセルバートはヴェイセルの隣に立つ。

「上がれそうか?」

「ああ、ヒカリダケを足場にすれば、なんとかなるんじゃないか?」

 ところどころ、岩壁から突き破るようにしてヒカリダケが生えている。

 大きめの傘もあり、そこでは二人が乗って休憩することも可能だろう。

「運がよかったな」

 そうエセルバートがいうと、美貌の男は快活に笑った。

「おまえがいれば、なんとかなると思ってた」

 一瞬何を言われているのかわからなかった。

「ほとんどは経験や実力がものをいう。運なんてものは、後からついてくる」

 強い信頼を向けられて戸惑い、エセルバートは何も言えなくなってしまう。

 赤銅色の瞳の輝きが眩しい。

 自身はそんなふうに見られるような相手ではない。

 そんなことを考えていたからか、不意に小さな背中が意識の裏で過っていく。

 一度瞼を閉じて、それを振り払った。

 もっとしっかりしなくてはならない。そうしないと、また失うことになる。

 目の前でヴェイセルが壁の具合を見ている。

「よし、いけるな」

 そう言い、こちらへ視線を向けた。

「肩を貸してくれ」

 楽しそうにしている表情は、戦闘のときに見せたものと変わらない。

 この男はこんなときでも明るさを失わないのか。

 それが頼もしくもあり、同時に羨ましくもあった。けれど、妬ましいとは思わない。

 きっと、これがこの男と自然体なのだ。

 そうして、二人は肩を貸し、手を借りながら、少しずつ上を登っていく。

 途中からレナルドたちの声が聞こえてきて、それに気づいた瞬間つい顔を見合わせて笑ってしまった。

 心から安堵の息が漏れた。

「もう少しだ」

 そう言われて手を差し伸ばされる。

 違和感のない感覚に、心地よさを感じる。

 背中合わせに戦ったときと同じような安心感は、この男がいないと成り立たない。

 胸に湧いたのはそんな確信だった。

 視界が次第に明るくなり、地上に出る頃には二人とも土埃で全身汚れていた。

「疲れた」

 地面に座り込んでいると、レナルドたちが水を持ってきてくれた。

「よかった。あんな深いところに落ちたから、怪我でもしたんじゃないかって心配した」

 大丈夫だと言っても一通り身体を確認して、ようやく安心したようだ。

 とにかく心配されて、申し訳なく思う。

「きみもだよ。なんで一緒に落ちるんだ? もう少しやりようがあっただろ?」

「無事だったんだし、もういいだろう」

 ヴェイセルがそういっても、まだ収まらないようだ。

 パーティただひとりの魔術師は、ずっと不服そうにしている。

「それに、こいつが落ちて死ぬと思うか?」

 話を振られて、視線が交わる。

 男がにっと口角を上げて笑った。

「俺はそんな心配してなかった。実際なんとかなったしな」

 そう言いながら、レナルドの心配を躱している。

 言われた言葉を静かに反芻する。

 ヴェイセルにはじめから迷いはなかったのだ。

 その信頼が別の誰かに向けられるところは、できれば見たくない。

 この男の隣に立つのは自分であればいいのに。

 そんな未来を想像することがあるなんて、思わなかった。

 けれど、悪い気はしなかった。

 もうすぐハーリーの街に着く。

 そこを出れば、目的地はすぐだ。